生きる 2007.3.15
ふきのとうが芽吹き、つくしが小さな顔を出す。梅や桃の花が咲き、桜の開花が待たれる3月は、冬の厳しい寒さから待ちに待った春を実感し、何とはなしに心弾む季節です。
生命の誕生は、動物や植物に限らず本当にうれしく、素晴らしい事だと思います。
私たちも多くの偶然と不思議の世界で誕生してきました。それでも思春期にはなぜ生まれてきたのか?何の為に生まれてきたのか?などと悩んだ時期もありましたね。
私の住んでいる、近所の大変親しくさせていただいている方の奥様(50歳)が、昨年がんの宣告をされました。ステージ4で全快は不可能であるため、抗がん剤や放射線治療で悪化を最小限にするしか手立ては無く、ご家族は大変苦しんでおられます。
不安と恐怖で一人でいると全身に震えがくるそうです。最近になって、死とある意味向き合えるようになり、ご主人の休日には一緒に旅行や、ゴルフを楽しんでいると言われます。何時死んでもいいように、家の中はきちんと片付けしているとか。
「たとえ世界が明日終わりであっても、私は今日りんごの樹を植える」(マルチン・ルター)という言葉がありますが、死を実感した時に、残されたわずかな時間をどのように生きるか。その奥様も苦悶し、苦痛と戦いながら懸命に生きておられます。
私がまだ20代前半の頃、親戚の叔父が私に「お前は親はいつまでも死なないと思っておるかも知らんが、必ず死ぬからそのつもりで居れ」といわれました。
親もまだ若かったしその意味するところは良く理解していなかったと思いますが、改めてそのように言われると、人間何時死んでもおかしくないから、親孝行はしっかりしておけという意味だと思い当たります。
私たちは、今の日常がずっと永遠に続くのではないかという錯覚に陥ります。
病気、交通事故、天災など様々な災難は予告なく、突然に起こります。
もしかして、明日私たちは生きていないかもしれない。それが現実でもあります。
それが仏教で教える「無常」です。だからこそ今という時間を大切に生きることが大事だといっています。
祝福され、偶然の中で奇跡的に誕生した私たちの命を、生きている間に悔いの無いように燃焼させ、他の人々の幸福に寄与出来るような生き方が出来れば、生まれてきた甲斐があったといえるのではないかと思います。
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