2010年7月20日火曜日

血筋

血筋                      2008.10.2


今年4月、東京から長崎までの1000キロの道のりを歩いた知人が居り、私も直方から飯塚まで伴歩させていただいた。遠賀川沿いを約20キロ歩いたがとても爽やかな一日でした。

 現在の飯塚は繁華街でもシャッターがまばらに降りていて、あまり元気のない町並みに見えました。

嘗て筑豊地方は、明治から昭和初期まで日本有数の採炭地域として、当時は大変な栄華を誇っていたようです。今も市の中心に伊藤傳右衛門邸のお屋敷があり、観光名所のひとつになっていますが、その日は残念ながら休館日で中を見ることは出来ませんでした。

伊藤傳右衛門は、歌人白蓮との再婚で話題となったものの、10年後白蓮から傳右衛門宛に絶縁状を新聞に掲載し、当時大騒ぎとなりその名前が全国に轟いたようです。

世間はこのようなゴシップが好きで、好奇の目を傳右衛門に向けました。しかし傳右衛門は、非常に律儀で人望もあり、自分は無学であったため、学校を設立したり、恵まれない子供には奨学金を出したといわれます。また、多くの銀行経営や企業の設立に携わり、北部九州の経済発展に大いに貢献し、安川清三郎、貝島栄四郎、麻生太吉らに次ぐ炭坑王として、尊敬されていたようです。

傳右衛門の父傳六は、その地区の目明しであったようです。目明しの給料は、現在の感覚で言えば女性の初任給程度だったようで、非常に薄給であった上、日頃はチンピラとの付き合いをしながら、情報収集しておかなければならず、お金はほとんど家に入れられなかったようです。其の為か、傳右衛門は早くに母を亡くし、寺子屋にも行けないという悲惨な状況でした。

父傳六は、職業柄と資質から、腕力があり威厳と人望があったようです。

そんな折、資本家の松本潜が、傳六に声をかけ、炭坑業を始めるきっかけになりました。

荒くれ男が全国から、筑豊の炭坑に流れ込み、喧嘩や博打が日常茶飯事の状態で、彼らを指揮できる胆力のある人材として、傳六に白羽が立ち、後の傳右衛門の成功に至ったのです。傳右衛門も父に劣らないくらいの胆力と腕力を備え、其の上慎重さがあったといわれます。

 余談ですが、映画俳優の高倉健(本名小田剛一)の父は筑豊炭田の一つ宝珠山炭坑の労務係をしていた小田敏郎だそうです。小田敏郎は元力士で四股名を「亀ヶ嶋」といっており、腕力・胆力に優れ、後々まで語り継がれるほどの人物だったようです。

 高倉健が、やくざ相手に啖呵を切る様は、正に父譲りの迫力だったに違いありません。

私たちは、先祖代々DNA遺伝子によって受け継がれてきています。

子孫に受け継がれる、身体的特徴や性格などは、単に生物学的な細胞としてだけではなく、家族、友人や隣人たちから学ぶ多くの「生き方や考え方」などが人格形成の土台になります。特に、幼少時の父母からの影響が最も強いのではないでしょうか。

私たちは、父母の後姿を見て成長してきました。今は私たちが子供たちに後姿を見せていく番だということを自覚しなければなりません。

(参考:筑豊一代 炭坑王 伊藤傳右衛門 著 宮田昭)

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