2010年7月21日水曜日

どうして

どうして                            2009.9.10


夏休みで東京から3歳の孫が帰ってきた。起き立ての気分がすぐれない時、遊びに夢中なときなど、感情の赴くままに、しゃべり、泣き、笑う。可愛いものです。

 3歳ともなれば、色々な物事が分かってくるが、逆に分からない事だらけで、「どうして?」の連発になる。我が家のパソコンも機関銃のようなオペレーションでついに故障した。そして「なんで動かない?」今度はこちらが泣きたくなる。

この頃の子供の純粋な疑問には、しばし驚かされる。長年生きていると、分からないことを一々分かろうとせず、「そんなものだ」、「当たり前だ」と片付け、それで特に生活に支障がないことでやり過ごしている。そのうち色々なことに興味を覚えなくなり、怠惰な生活にも何の危機感も持たなくなってくる。生きるとは何か。

 子供の知識欲には驚嘆するが、根本は「ものまね」ではないか。親のすることは自分でもやりたい。兄弟がいれば同じことができるようになりたい。といった欲求のように思う。

そのように考えると、身の回りに尊敬できるような人が居れば、そのような人になろうと努力する。毎日イチローや石川遼の活躍をみれば、自分も野球やゴルフをやりたいと思う。

人の成長は憧れや、夢で育まれると思われる。

 振り返って今の私たちはどうであろうか?憧れも夢もなくなっていないだろうか。

子供に期待することが、自分の夢に替わっていないだろうか。

夏の祭事に、終戦記念や広島・長崎の原爆式典がある。先日、NHKで特攻隊に関する番組があった。戦争に係った軍人たちが、戦後毎年定期的に集まり、反省会を開いているという。誰もが悲惨な目に合い、命令した人も、された人も皆不幸になった。

なぜ特攻隊ができたか? 軍司令部は誰も命令しておらず、現場が現状打開のために自発的に行ったと主張し、現場は命令され仕方なく行ったという。敗戦と同時に機密資料は廃棄され、実証できるものはない。かつての軍人たちは、特攻隊というほとんど戦果のない戦略のために、将来のある若者を死地に向かわせているという事実が判っていながら、誰もそれに異論を唱えることが出来なかった、正しいことを言える環境になかったと証言している。

 我々はこれまでもメディアに踊らされたり、ファシズム的な恐怖政治にも翻弄されてきている。自由に考え、行動することの出来ない国は、地球上にまだ多くある。その点で言えば、今の日本は民主国家として良い国の部類には入る。

しかしながら、この様な状況は自然に出来たものではなく、多くの識者が抵抗し勝ち取ったものであり、今後も続く保障はない。今政治は混沌としてきている。

我々が主体的に考え「どうして?」という疑問を持ち、国民の幸福を追求していく行動が、民主国家の基本であり、後世に対する義務ではないかと考える。

国家も歴史を通して成長していかなければならないが、しばしば後退することがある。

成長を支える基本は、人々がそれぞれに「どうして」という単純な疑問や不自然さを感知する感性ではないか。

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